SMとは、何なのか
SMとは、いったい何なのでしょう?
「SM」というものに焦がれるような興味を持ち始めた10代の頃から、仕事としても携わるようになった現在まで、本当に長い間この不可思議な性癖、欲望の正体を考え続けてきました。
それでも、やっぱりと言うべきか、私はいまだに明確な答えを持てずにいるのです。
SとM、加虐と被虐。
人を虐げることで興奮するサディストと、虐げられることで興奮するマゾヒスト。
本来の言葉の意味するところは、ただそれだけ。
けれど、それだけではおさまりきらないほどのたくさんの意味が「SM」という二文字には含まれています。

SMという関係性
多くの人がSMと聞いて思い浮かべるのは、鞭で打たれ辛い痛みに耐えることや、身体の自由を奪われ拘束されること、言葉による命令や責め、首輪をつけられ犬のように扱われることなど。
きっとプレイとしての行為なのでしょう。
人が人を痛めつけ、痛めつけられるような行為を楽しむ、そんな変態プレイという側面。
もちろん、それらもSMの一部です。
だけど、プレイとしての行為そのものがSMの本質なのか、私を含めた多くの人々が求めて止まない欲なのかと考えると、少し違う気がします。
同じように鞭を打ち、同じような言葉を使ったとしても、相手や場面によって行為の意味は変わってくるし、単純に痛めつけること、虐げることに愉しみを見出しているわけではないのです。
(あくまでこれは私の場合で、単純にSMプレイとしての行為を楽しんでいる人たちもいるでしょうし、そこに優劣や否定の気持ちはありません)
罰なのか、ご褒美なのか、責めなのか、はたまた遊びなのか。
どんなものとしてそれを与え、相手はどう受け入れるか。
それが私にとっては大事です。
だから、私にとってのSMとは行為そのものではなく、
人と人との間に生まれる関係性や感情の愉しみ方の一つなのではないか。
そう考えています。


SMはファンタジーなのか
「SMは言葉の遊び・脳内の遊び、ミストレス(女王様)はファンタジー」
私がプロのミストレスとして働き始めた頃、よく聞いた言葉です。
すべては頭の中で起こること。
見えるものも見えないものも含めて、ファンタジーとして存在する。
一瞬の夢や幻だからこそ、儚く美しい悦びとなる。
SMがファンタジーの世界で、非現実の世界、日常とは離れた場所にあるからこそ夢中になれるのも事実です。
だけど、脳内だけのファンタジーの世界・関係と言い切ってしまうのは、私は寂しいと思ってます。
だって、私たちは現実に存在して、SとしてMとしていつだって何かを思い、感じ、生きているんですもの。
日常と非日常、完全に切り離すこともせず、できず、二つの世界を行ったり来たり、私はそれくらいがちょうど良いのです。

SとMの役割
「奴隷にしてください」
今までに何度もそんな言葉を聞いてきました。
その多くは初対面だったり、出会ったばかりの人です。
そんな時、私は違和感を覚えてしまいます。
そう簡単に、誰かが誰かの「奴隷」になんてなれるものなのだろうかと。
言葉にすることで「今から主人と奴隷」という関係で「ごっこ遊び」を楽しむことはできます。
手軽なロールプレイとして、それはそれで楽しいものです。
でも、ごっこ遊びとしてのSMと、じっくりと時間をかけて育て熟成させていく「関係」としてのSMは、当然同じではありません。
何度も顔を合わせ、話し合い、相手を知り、相手にも知ってもらう。
時には考え方や感覚が合わず、ぶつかることもある。
それでも、関わり続ける。
そうした積み重ねの先に、二人だけのSM、二人だからこその関係が生まれるのです。
それはお互いがファンタジーではなく現実に生きているからこそ、できることです。
性癖がSだからS(役)になる。
性癖がMだからM(役)になる。
そんな単純な役割ではないと思っています。

SMには、言葉が必要
SMというと、言葉よりも(技術を含めた)行為の方が強調されて見える世界です。
だけど、本当はとてもたくさんの対話が必要なのだと思います。
相手は何を求めているのか。
本当に嫌なこと、許せないことは何なのか。
どんなことなら…
もしくはどうなったら、委ねられるのか。
どこまでなら、自分を預けられるのか。
そして、こちらは相手に何を感じているのか。
何を求めているのか。
そうしたことをプレイの感覚だけでなく、対話を通じても知っていく。
それらを全部ひっくるめてこそSMセッションと呼べるのではないでしょうか。
SMという関係を築く以前に、まず人と人として向き合うこと。
それを怠ったまま、もっと複雑な関係性を築くことはできないのではないでしょうか。


「委ねる」ことと「支配」すること
SMでは、支配する側と支配される側という構図がよく語られます。
だけど、Mが自分を委ねるということは、本当はとても勇気の要ることです。
だからこそ、自分の意思で、誰かに主導権を渡す。
自分で選んで、相手に預ける。
誰にでも委ねられるわけではないからこそ、Mは“この人になら!”と思えるようなSを選ぶのです。
そして、S側は選ばれてやっとそのMにとってのSになれるのだと思います。
Sだからといって、好き勝手に振る舞えばいいわけではありません。
相手が何を感じているのかを見て、考えて、時には導き、時には待つ。
支配するということは、相手の心を無視することではありません。
むしろ、相手をよく見なければ成立しないものだと思います。

SMに、決まった形はない
SとM。
主人と奴隷。
ドムとサブ。
飼い主とペット。
いろいろな関係があります。
(ちょっと乱暴ですが、この文章では全部ひっくるめて上下のある関係をSM、SとMという言い方をしています)
どれが正しいわけでも、どれが厳しいわけでも、優しいわけでもありません。
強い支配を求める人もいれば、優しく導かれることを求める人もいます。
肉体的な刺激を求める人もいれば、言葉や精神的な繋がりを重要視する人もいます。
最初はSMという関係を求めていなかった人が、誰かとの関係の中で自らのM性に気付くことだってあるのです。
だからこそ、
「SMとはこういうもの」
と一つの形に決めてしまうことはできないし、するべきではないと私は思っています。
これまでに私が書いてきたことも、私の求めるものがそういうものであるというだけ。
人それぞれに求めるもの、欲するものは違って当然です。
ただ、SMは相手がいないと出来ないものだからこそ、お互いの求めているものが合っているか、そこだけは大切にしなくてはいけないと思っています。
その上でなら、どんな形のSMがあっても良いと思っています。

私がSMやめられない理由
ずっとSMについて考えてみても、結局は答えがあるようで、ないのです。
何かを知った・わかったような気がしたと思ったら、また知らないこと・わからないことにぶつかる。
昔の自分なら「こうあるべき」と思っていたことが、今では少し違って見えることもある。
それでも、考え続けていると、少しずつ自分なりの答えのようなものが朧げながらも形作られてくる。
そして、その答えもまた、いつか形を変えてしまうのかもしれません。
もちろんその中には、ずっと変わらない根本を支える思いがあるのですが、完全な答えなどいつになっても現れないような気がしています。
でも、
だからこそ、
考え続けられることが、SMの面白さの一つなのかもしれない。
いつまでも終わらない、尽きないからこそ、私は今もプロとしてSMを続けています。
そして、何より性癖というのはやめられないのです。

SMとは、何なのか。
これを書いている“今”の私が、言葉で整理するとこうなります。
SMとは、単なる「加虐や被虐、変態プレイとしての行為」だけではない。
支配すること、服従することだけでもない。
その間にある、
人と人との関係性と感情の遊び。
そして、その関係性と感情を作っていくための、
コミニュケーションの愉しみ方。
誰かに委ねること。
誰かを導くこと。
相手を知ろうとすること。
自分自身を知っていくこと。
時には与え、時には奪う。
冷たく堕とすこともあれば、救い上げたいと願う時もある。
とてつもなく醜い欲の塊であり、美しく純粋な優しさでもある。
支配や管理という枷には信頼が隠れている。
相反するように見えて、そうとも限らず、そんなところもまた人間らしく愛らしい。
だから、私はSMを一つの答えの中に閉じ込めたくありません。
人の数だけ、関係の数だけ、
それぞれのSMがあっていい。
そして、私自身も、これからもまだ新しい答えを見つけていくのだと思います。
SMとは、何なのか。
その問いに、私はきっとずっと心を奪われ続けるのです。
Mistress Q



