Possession〜所有という欲〜
人間家具とポゼッションプレイ
SMのプレイの中に、ポゼッションプレイというものがあります。
私自身の好きなプレイでもあります。
一般的には、それほど知られているプレイではないのかもしれませんが、私はポゼッションプレイには“SMらしい考え方・遊び方”が詰まっていると思っています。
ポゼッション=所有
簡単に言うと、
相手の人格や人権を奪い、自分の所有物として扱うプレイのことです。
人間を椅子やテーブルなどの家具として使う人間家具だけでなく、花瓶やオブジェ、灰皿や便器などの道具として使うこと、荷物として梱包するような拘束も、ポゼッションプレイの一種です。
自分がヒトではなく、ただのモノとして扱われる。
身体的な自由を奪われるだけに留まらず、言葉も表情も、精神的な自由も、奪われる。
誰しもが持っているはずの人間としての尊厳を奪われることに興奮するマゾは、意外と多く存在します。
奪われてはじめて何者でもなくなれる、その状況に興奮だけでなく、解放を感じることもあるのです。
だけど、それだけではないポゼッションプレイの魅力は、その言葉の通り所有という部分にあります。

所有する楽しさと、所有される悦び
実は、奴隷調教やペットプレイもポゼッションプレイなのです。
奴隷やペットの肉体は、誰のものでしょう?
たとえば自由に動けたとして、自由に話せて感情を伝えることができたとして、それはなぜでしょう?
もしかしたら、その同じ時間に、手も足も動かせず、声も視界も、呼吸すら奪われていたかもしれない。
自由であることと、自由がないこと、奴隷やペットにとってはどちらも同じです。
なぜなら、自分で選べることではないのですから。
主人がどちらを与えたか。
それだけでしかないのです。
所有する楽しさは、私の物・私だけの物というところにあります。
自分の所有物に、何をしようと、どう扱おうと、私の自由、私が決められる、そんな楽しさです。
だけど、初めから全てが主人のものだったわけではありません。
段階を経て、完全なる所有物として変化していく、それを見る楽しさもあります。
それはまるで、相手という器に私という存在を注ぎ込み満たしていくような感覚です。


そして、所有する楽しさと対になるように、所有される悦びというものが存在します。
「奪われてはじめて何者でもなくなれる」と、先ほど書きました。
だけど、そこで終わりではなく、何者でもなくなったところへ再び“自分が何であるか”を与えられる悦びというものもあるのです。
自由を手放すこと。
何者でもなくなること。
与えられるままに委ねること。
何であるかを決められ、それを求められること。
これらは、どれも赦されることと、とても近いのかもしれません。



